民俗学 Folklore

 古くから浜辺は人々の身近にありました。

 浜辺をうろついて、食料を得たり、はるか彼方から流れ寄るものに神を見出したり、浜辺に暮らした人々は海と関わってきました。

 また、海上交通が盛んになれば各地に港ができ、交易の拠点となりました。日本海側では北前船が行き交い栄えた場所もありました。

 浜辺にはそんな「海と人との関わり」を知ることのできる事柄が、いくつか見つかります。そんな関わりを漂着物の中から紹介したいと思います。

知多半島の製塩土器

 愛知県の知多半島から渥美半島にかけての一帯では、古くから製塩が行われていました。地図にある赤いドットは製塩遺跡です。

 奈良の平城宮跡から見つかった木簡には、この地域から奈良の都へ神亀4年(727年)に特産の塩を送ったことが記されています。写真の展示は、知多市歴史民俗博物館のものです。こうした製塩は古墳時代後期から平安時代末期にかけてのおよそ500年間ほど、行われていたと言われています。

 製塩土器は碗の下に筒状や角状の脚をつけ、濃縮した海水を煮詰めるのに使われました。塩を出荷するときには脚部分を折って、碗に入れた塩ごと運ばれました。そのため、捨てられた製塩土器の脚部だけが大量に出土します。

 知多半島の先っぽにある南知多町では、現在の海岸近くで製塩が行われていたようで、角状の製塩土器の脚部を拾うことができます。

小浜市矢代の手杵祭

 福井県小浜市の矢代では、毎年4月3日に手杵祭が行われてきました。この祭は、漂着にまつわる悲劇を忘れることのないよう今に伝えた悲しい「まつり」です。その由来は、今から1200年ほど前の奈良時代に一艘の唐船が漂着したことからはじまりました。船には高貴な女性と従者の8名が乗っており、漂流の果てに食料も尽きて、言葉も通じず哀れみを乞うばかりだったそうです。最初は面倒をみていた浦人でしたが、船に積まれた金銀財宝に目がくらんだ浦人は、手杵をもって襲い、異国の人々を皆殺しにしてしまったそうです。それ以来、矢代には災いが絶えなくなり、浦人たちはこれを悔い、たたりを恐れて、霊を慰めるために、唐船を解体した材を使って本堂を建てて、手杵祭をはじめたそうです。

 ●今でこそ交通網が発達し、真っ直ぐな道路が延び、小浜市の中心部から矢代までそんなに時間はかかりませんが、その昔は船が主な交通手段で、言わば陸の孤島でもあったでしょう。

 ●浜に出て矢代の集落を見れば、山が迫ってくるリアス式の地形で、平地がほとんどないのが分かります。

 ●観音堂(福寿院)には朝10時半頃からみなが集まり、住職が王女らの霊を慰める祈祷が行われます。

 ●祈祷の後には王女らが飢えをしのいで食していたと言われる「ヘラモ」を食べ、往時をしのびます。

 ●祭は観音堂から50mほど離れた賀茂神社で行われます。

 ●そのため観音堂の祈祷が終わると、観客らも一斉に賀茂神社に移動します。

 ●賀茂神社の長屋と呼ばれる建物の中では、手杵棒振り1名、弓矢持ち2名の頭にウラジロ巻いたり、顔の隈取りの準備を行い、士気を高める太鼓が打ち鳴らされます。

 ●準備が整うと、長屋から大禰宜に続き、手杵棒振り、弓矢持ちと行列が続きます。

 ●次に裃をつけた若者6名が唐船丸を持って続きます。

 ●その後にに頭に金袋をのせた女子8名が続きます。

 ●女子の後には頭にシダを巻いた太鼓打ちが続き、しんがりは男子児童の笹持ちとなります。

 ●本殿の裏を抜けて一周した行列は長屋の位置に留まり、手杵棒振りがお堂の前で半周棒を振り上げて走ります。

 ●半周の中央に戻った手杵棒振りは棒を投げ捨てました。

 ●次に弓矢持ちの2人が向かい合い弓矢を上下させて一例しました。これまでの一連の所作は、殺戮(さつりく)の場面を演じているものでしょう。

 ●続く唐船丸や行列には特別な所作はなく、後をついていくだけでした。この舞いと行列は賀茂神社境内で2度行われました。その後、賀茂神社と観音堂に通じる道路上と、観音堂の前で同じことを繰り返しました。

 ●その後賀茂神社に戻り、唱和をして道具をお堂に置き、祭は終了しました。

 ●太鼓の手前は、鏑矢。

 ●お堂に仕舞われた道具一式。

 ●北側から見た賀茂神社の鳥居、右に長屋があります。

 

 手杵祭は平成17年より、矢代集落の過疎化によって途絶えていました。それから9年後の平成26年、地元の小学校の協力で、手杵祭が復活しました。過去の漂着に関わった戒めとしての意味を持つ祭を、今後も末永く続けてほしいものです。

敦賀市常宮神社 (じょうぐう)

 敦賀では「お産のじょうぐうさん」と呼ばれていて、安産の神様として崇められています。また敦賀の気比神宮と関わりが深く、常宮神社は奥宮といわれています。 7月には、気比神宮の祭神・仲哀天皇を納めた船神輿が船で海を渡り、神功皇后を祭る常宮神社まで会いに行くという神事が行われています。

 神功皇后が三韓征伐に際して海路の無事を祈願したとの言い伝えがあることから、航海や漁業の守り神としても信仰されています。常宮神社の拝殿は海に面した四方吹き抜けのもので、気持ちの良い海景が眺められます。また神社内には神社下の浜で拾われた、芭蕉が詠んだ「ますほの小貝」などのきれいな貝殻が、「参拝記念にどうぞ」と置いてあるのも、ビーチコーマーにはうれしいですね。

八百比丘尼(はっぴゃくびくに)

 福井県小浜市にある空印寺(くういんじ)は、八百比丘尼の入定の地とされています。とある漁師の娘は、人魚の肉を食べてしまったために、不老不死のまま永らえ、いつしか八百年の歳月が流れたそうです。ふるさとに戻った八百歳の娘のまわりには、もう誰も知っている人も無く、空印寺の洞穴に入って食を絶ったそうです。また八百比丘尼は椿を愛し玉椿姫とも呼ばれています。

 最近では妖怪ウォッチにも登場し、お肌がピチピチの八百比丘尼に愛されると、不老不死を手に入れられることができるそうだ。(笑)

鶴亀木槌・「ガリヤイの槌」

 

 ある年の2月、美浜町の海岸を歩いたら、いくつかの燃やされた木槌に出会いました。木槌の柄の端には鶴、亀の文字が記され、槌の部分には「ケガや病気をしないように」などとの願い事が記されていました。

 これは「ガリヤイの槌」と呼ばれるもので、小正月の夜などに子どもたちが家々の戸口を叩いてまわる行事に使われたものが、浜でどんど焼きのように燃やされたものでしょう。この槌はリニューアルした若狭歴史博物館にも展示されています。

 

垢くみ(あかくみ)の歴史   手作り製品から既製品へ

 垢くみは舟に溜まった海水をくみ上げるために使われるものです。

 石井先生の本によれば、かっては一本の木を刳りぬいて作った工芸品のような垢くみもあったようですが、マジメに浜歩きをはじめてから見たことはありません。

 これまで見ていたのは板材を組み合わせたものでしたが、それに他の素材も加わってきました。底板がブルーの垢くみは、底にFRPが使ってあるハイブリッド素材です。

 手作りの盛んな韓国や中国などでは、不要になったポリタンクをリサイクルして、手作りの垢くみが作られることもあります。

 現在ではプラスチックの既製品が多く、国産品もあれば、中国製や、韓国製もみられます。

難破船

 日本海側では、特に季節風の吹き出す秋から冬にかけて難破船の漂着が目立ちます。破船は磯に打ち上げられることが多く、砂浜にはそんなに損傷を受けていない船が漂着することが多いようです。木造船の場合、ほぼ船全体が水中に沈んで漂流していることも多く、そんな船は藻類や付着生物に全体が被われています。それでも、拉致や密航のあった地域ですので、見かけるとドキドキしますね。

破船

 

 福井や石川の沿岸では、時折破船を見ることがあります。その多くは日本海に流出したちっぽけな平底船で、磯に打ちあがり打ち果てた物悲しいイメージを持つものです。石井先生の漂着物事典には、伊良湖岬で言われていた「イナサこいやれデンゴロリン」という言葉が載っており、これは東南風で船をくつがえせという意味で、積極的に船を寄せるようなことも行われていたようです。

所有の印

 

 浜辺を歩くビーチコーマーの中には、実用品としての漂着物を求める人たちがいます。流木を見つけると、写真のように積み重ねたり、棒を立てることでることで「所有の印」とします。こうした流木があった場合、後 から来た人は手をつけないという暗黙の了解が浜歩きの人々の中ではあるようです。

 福井市三里浜砂丘には「材木おじさん」という有名なビーチコーマーがみえて大荒れの後には一番にやって来て、「所有の印」をつけて帰られます。

御神札

 

 ビーチコーミングをしていると、時折「御神札」の漂着を見かけます。

 これは、海上安全・大漁満足などと書かれた「漁木札」です。このような漁木札を出しているのは、三保神社などのように海と関連の深い神社ならではのもので、そのほとんどはプリントですが、綿積大神の漁木札のように墨書されたものもあります。

 

浜焼き

 

 最近、浜辺では野焼きならぬ、浜焼きが各地で行われています。大量の海ゴミの寄る福井や石川あたりでは、海ゴミの処分をかねて、個人でやられている方が多いようです。

 こうした浜焼きって、古くからあったものでしょうか?どうも大量のプラゴミが出るようになった平成になってから始まった風習のようです。

拾いワカメ

 

 渥美半島の磯では、3月からワカメ漁が解禁になります。そうなると小船で磯に出かけてワカメを採る人や、ウェーダーなどを履き、海中に入ってワカメを採る人の姿を見るようになります。それに加えて、磯から先端に松の股を結わえた道具を使うワカメ拾いの人をみるようになります。波飛沫のかかる岩の上でじっと海面を凝視して、波で寄ってきたワカメを上手にすくいあげていました。

 

ワカメ採り具

 

 渥美半島の磯では、3月からワカメ漁が解禁になります。

 上の写真でワカメを救い上げていた人にお願いして、道具を見せてもらいました。竹竿の先に枝分かれした松の股を結わえつけたシンプルなものですが、機能はバッチリでした。聞いたところ、道具は浜辺で作るそうで、打ち上げられた竿に、打ち上げられたロープを使い、持ってきた鉈で赤松を切って作ったものだそうです。

 

ワカメ干し

 

 渥美半島の磯では、3月からワカメ漁が解禁になります。小船で採ってきたワカメは、すぐさま砂浜に引き上げ、根っこのメカブ部分を切り取って砂浜に真っ直ぐ伸ばします。これは北海道の昆布干しと一緒ですね。

 お天気の良い日なら、太陽に加え、強い西風が吹くものですから、ほぼ一日でワカメは干しあがります。漁師さんたちは、切り取ったメカブ部分は、そのまま放置されるので、一声かけて頂いてくることもあります。

岩のり採り

 

 波の穏やかな冬の大潮の日に、敦賀市白木の海岸でビーチコーミングをしていたら、沖のほうからシャカシャカ音がしていました。その音はずっと続いていたので、何だろうと近づいたら、地元の方々が堤防の上でしゃがみこんでみえました。手には大きめな金属製のスプーン状のモノを持ち、それを使って堤防の上に付着した岩のりを採ってみえました。海の荒れた冬場、ここはいつも波を被り、岩のりには最適な環境なのでしょう。

藻上げ

 

 11月末の若狭で、堤防脇に軽トラが停まっていました。荷台には大量のホンダワラの仲間が積み込まれたプラケースが積まれており、浜辺では一人のおじさんがプラケースに海藻を積み込む最中でした。

 若狭では、かって海藻が畑の肥料として使われていたそうですが、化学肥料の普及により、藻上げは減ってきたそうです。

貝ほり


 外洋に面した渥美半島の表浜では干潟はありませんが、大潮の干潮時にはチョウセンハマグリ目当ての貝ほりに興ずる地元の人が現れます。道具を使う人もみえますが、裸足になり、上手に足で探る人も少なくありません。


仏頭? 

 

 2007年2月、福井市亀島の望める磯に、顔の大きさで50cmほどの仏頭?かと思われるものが漂着していました。

 それは木像で、かっては彩色してあったようですが、漂流とエージングによって色褪せており、表面には多くのエボシガイとコケムシの付着が見られました。

 乾いておれば、引き上げたかったのですが、海水に浸かっていてかなり重く、これをかついで崖を登る元気はなかったので、少し上に上げて置きましたが次の暴浪でもっていかれたようです。

烏将軍


 この仏像は、1990年11月に手杵祭の行われる小浜市矢代に赤い布で包まれて漂着したもので、若狭歴史民俗資料館の収蔵物です。

 その後の調査により、この30cmほどの立像は木像の一木造り(頭と胴とを同じ一つの木から彫りだすもの)で、およそ700年前(13世紀)中国の南宋時代に作られたものと判明しました。像の顔面には嘴が見られることから、烏将軍と呼ばれています。

 布に包まれて漂着していた経緯もあり、災害などによって流出したものではないと思われますが、どうして流されたかは不明で、謎の残る像です。

渥美半島の戦争遺跡

 渥美半島では明治時代から射撃試験場など軍の施設が置かれ、そのために住民の強制移転なども行われてきました。また本土決戦も含め各地に戦争遺跡が残っていますが、ビーチコーミングで歩く浜辺のものを紹介しましょう。

 左の二つは、渥美半島の先端にある伊良湖岬の恋路ケ浜からも見ることのできる施設で、レンガ製で外浜観測所と呼ばれていました。夏草の生い茂る時季には目立ちませんが、冬は分かりやすいものです。ここは伊良湖射場の関連施設の一つで、遠距離砲弾の飛行や落下を確認する観測所でした。

 右の二つは、一色境にある大きなチャートの岩体をくり抜き、中は弾薬庫で岩の上には機関銃が備え付けられていたそうです。今の一色機関銃陣地では機関銃を設置したときの名残の四角い穴が空いています。